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疫学、その熱狂と魂 - 佐々木敏名誉教授インタビュー Part.2 「地に生きる者たちのための疫学、ヨーロッパから世界をまなざして」

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疫学、その熱狂と魂 - 佐々木敏名誉教授インタビュー Part.2 「地に生きる者たちのための疫学、ヨーロッパから世界をまなざして」

2024.12.02

今回のプロフェッショナル

背景

講義室は、異様な熱気に包まれていた。

とある国立大学で開催されていた毎週の講義は立ち見が出るほどの人気ぶりで、生徒の中には30分も前から教室に来て席を取る者もいる。

いざ授業が始まれば、教室中が講師の発する熱気に飲み込まれた。椅子に座って耳を傾ける座学であるはずなのに、気づけば生徒の血はたぎり、胸が高鳴る。

講師が質問を投げれば、生徒も我先に答えんとばかりにあちこちで手を挙げる。90分の講義時間は一瞬のうちに過ぎ、生徒の殆どが一度も時計を見ることなく夢中になっていた。講義というよりも、まさにハリウッド映画を観ているかのうような興奮である。

日本全国の大学院で、毎年立ち見がでるような講義が果たしてどれだけあるだろうか。

それが、日本を代表する疫学者、佐々木敏先生の講義である。

佐々木先生が教える疫学は、疫学という一つの学問を超え出て「君たちはどう生きるのか」という根源的な問いを聴くものに突きつけていた。

たとえばコホート研究、たとえばケースコントロール研究、そうした単なる知識の解説も、佐々木先生の研究者としての卓越した眼差しと実践に裏付けられた息遣いをもって語られることで、途端に躍動する。

その生き様は、疫学者としての一つの到達点にあり、「いったいどのようにしてその境地へと至ったのか」を世に知らしめることには意義がある。そう考え、佐々木先生にインタビューを行わせて頂いた。

記事は全3回を予定しており、それらを通して「いかにして一人の人間が卓越した研究者になったのか」という個別具体を描き、そして普遍していく

vol.2となる今回は、佐々木先生のヨーロッパ留学時代の話から「海外で疫学を学ぶことがどういうことかを浮かび上がらせていく。知識としての科学には客観性が求められる一方で、それを人間が使う以上はその国の文化や風土が反映されるはずである。日本で学ぶ疫学と、ヨーロッパで学ぶ疫学にはどのような差異があるのかを感じ取っていこう。

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キャリアシリーズ

  • 疫学、その熱狂と魂 - 佐々木敏名誉教授インタビュー
    - Part 1:伝説の疫学講義はこうして生まれた
    - Part 2:地に生きる者たちのための疫学、ヨーロッパから世界をまなざして
    - Part 3:一つの学問が立ち上がり、波紋は広がる その稀有な現象を、栄養疫学という窓から垣間見た

  • 新谷歩教授インタビュー

    - Part 1:アメリカに燃ゆる執念、人事を尽くし教育した医療統計がここに

    - Part 2:アメリカに燃ゆる執念、人事を尽くし教育した医療統計がここに

 

語り手

佐々木敏先生(東京大学大学院医学系研究科 社会予防疫学分野 名誉教授)

日本の栄養疫学の第一人者であり、Evidence Based Nutrition(科学的根拠に基づく栄養学)を日本で提唱し、牽引し続けている。日本人が健康を維持するために摂取すべき栄養素とのその量を示したガイドライン「日本人の食事摂取基準」の策定の中心的役割を長年担い、さらにWHOの栄養ガイダンス専門家会議のメンバーを務めるなど国際的な学術活動も行う。東大SPHで担当した「疫学研究と実践」の講義は毎年立ち見がでるほどであり、卒業生の多くが「最も印象に残った授業」として感銘を持って語ることも多い。著書に『わかりやすいEBNと栄養疫学』『佐々木敏の栄養データはこう読む!』『佐々木敏のデータ栄養学のすすめ』『行動栄養学とはなにか?』ほか。

語り手の書籍一覧

佐々木敏のデータ栄養学のすすめ

行動栄養学とはなにか?

 

 

聞き手

廣瀬直紀(mMEDICI株式会社CEO/Principal Epidemiologist)

東大入学後に燃え尽き、放蕩生活を送る。授業では出席をとった瞬間に退出し、図書館で本を読んでさぼるような日々であり、3年間の留年を経験する。そんな中で「暇だったから」という理由で偶然参加した佐々木敏先生の授業に感銘を受け、疫学という学問を知る。学部卒業時に佐々木先生より頂戴した『わかりやすいEBNと栄養疫学』を読み耽り(今も本棚に大切に並べている)、その後東大SPHに進学。卒後は自身も疫学専門家となり、「私が佐々木先生や他のSPHの先生方の熱に触れて人生を変えてもらったように、一流の熱に触れるチャンスを学びにアクセスできない全ての人に届けたい」という想いからmMEDICI株式会社を創業する。

   

 

今回は先生のヨーロッパ留学時代のお話を伺わせてください。私自身、外資製薬で働いていた際にはグローバルチームに所属しており、そこで同じ「疫学専門家」であっても日本と欧米では疫学への向き合い方が違うように感じていました

それは面白い視点だね。

確かに、ヨーロッパの科学は、哲学や文化というものとも距離が近く、互いを支え合っているように感じる。一方で日本は、科学というものが技術により強くつながっており、哲学や文化というものへの繋がりが相対的に弱い気がするね。

それは私も感じました。欧米の疫学専門家と接する時、彼らは腹で疫学をするのに対して、日本、少なくとも私は頭で疫学をするというか

うまい表現だね、それはわかるよ。

そもそも先生はどうして留学後にヨーロッパ、ベルギーを選ばれたのですか?それは凡庸ではない選択肢だと感じます

そもそもなんで留学したかってとこから話そうか。

僕が医学部を卒業した当時、医者の留学ってのはだいたい3パターンに分かれた。

まずは所属する研究室が海外の研究室と共同研究をやっていて、学生が行き来するパターンだね。

二つ目は学生が自ら留学先を探してくるパターンで、「箔をつけよう」って目的でネームバリューが高いところを選ぶ場合。

そして三つ目はシンプルにやりたいことをやるために留学する場合。

僕の場合は3つ目だった。前回お話しした国立循環器センターの先生に相談をして、「栄養学を勉強したい、疫学を勉強したい」と相談したところ、ベルギー、ロンドン、シカゴをあげてくださって。

ちなみにその当時は「栄養疫学」なんて言葉すら知らなかった。

その中で僕が興味を持ったのはベルギー。

私などは単純なので、留学ならイギリス!アメリカ!と考えてしまいそうなものですが

なんでベルギーを選んだかというとね、大陸ヨーロッパの西側が日本にかなり近いって感覚を持っていたんだよね。日本の疾病構造、社会構造、歴史、文化とかを考えるとさ。

少なくともアメリカは違うってことはわかった。アメリカはそもそも日本とは国の成り立ちが違って、移住してきた人たちが作った人工の国だよね?そして、面積に対して文化が比較的画一的で、一方で人種が多い。これは日本とはずいぶん異なる歴史や国家構造だ。

だから、公衆衛生や予防医学を勉強して日本に持ち込むなら、アメリカから学べるものは実はそんなに多くはないと感じた。

一方でヨーロッパ西側ってのは、小さな文化が集まってできた国々であって、そしてそれぞれのローカリティがかなり温存されている。これは日本に似てるぞって思ったんだよ。

僕たちは日本語ってのを普通に話しているけれど、井上ひさしの「國語元年」を読むと、明治の初期なんかはいろんな人たちが東京になった旧江戸に集まって、それで共通語がないからお互いに話ができないなんてことが書いてある。それで共通語として作られたのが今の日本語だと。

そういう話を子供時代に読んだことがあってさ、「それならヨーロッパも一緒じゃないか」って。少しずつ異なる言語がそれぞれ1,000年、2,000年って生きていて、食べ物のローカリティも似ている。

だから、食べ物の健康影響を考えるなら大陸西ヨーロッパが日本のことを教えてくれると思ったんだ。それでベルギー。

その近くにはイギリスがあるけれど、イギリスは日本のように大阪があって、江戸があって、京都があって、そういう均衡するような言語が並んでるとは思わなかったから選ばなかった。

留学前から、佐々木先生にとっては疫学がただの表層的な知識ではなく、そこに生きる人々の暮らしに根付いた文化であり、哲学であったという視点をお持ちになっていることに感動しました

それはね、おそらく僕の場合は逆なんだよね。

むしろ僕は留学先のベルギーの教授から「ここまで疫学を知らずにきた学生は君がはじめてだ」って言われたくらいだから笑。

僕はね、疫学を勉強していってそこから文化を眺めたのではなく、まず先に文化というものが好きで、食べ物が好きで、旅行が好きで、人が好きで、そこに疫学的解釈を加えればカッコよく言えるかな、なんて思って笑。

すごく腑に落ちました。佐々木先生の疫学の話を聞いていると、単なる一つの学問というより、佐々木先生の中に蓄えられた知識や文化、生き様などの"るつぼ"の表現系として疫学があるように感じていました

うまい表現だね。

僕はまず疫学を知る前に、生態学や植物生態学が好きになってね、京大の工学部時代なんかはとにかく専門書を読み漁ってたんだ。そういう経験が僕に大きな影響を与えている。

植物生態学ではさ、異なる植物の集合が森を作っていって、互いに影響して森という安定した環境を作り上げていく。ここに影響を受けて、あらゆるものをそういう目で見ることに凝ってしまってさ笑。

そうしてたら20歳くらいの頃かな、梅棹忠夫の「文明の生態史観」を読んで大感銘を受けた。あれは生態学理論を文明論に適用した例であり、あれをみて「だよね」と思った。

生態学はある種の動物、例えばミツバチなんかだけに適用するものではなく、人間にも適用して当たり前。それで地球を一つの森として捉えて、っていう本だね。これが僕の疫学に大きな影響を与えた。

医学からきた人はさ、まず個人としての患者からスタートするじゃない?

でも僕の場合は生態学を読んでいたので、まず集団があって個というのが当たり前だった。集団があるからこそ個が生きる。だから、健康科学や医学から入ってきた人とは僕は個と集団というものの矢印が違っていて

そうして生態学の本を読んで、そこからさらに文明、環境、宗教、そういった本を貪り読んでいった。それと同時にその頃から海外に旅へ行き始めたので、人間っていうものがどこかに浮いているのではなく、環境の中に溶け込んでおり、相互に影響を与え合って生きていると思ったんだよ。

疫学の本を読み始めたのはそのあとだったかな。留学する前に一冊だけね笑。

その頃は工学部にいらしたと思うのですが、工学系の本が一冊も出てこないのが面白いです

僕は工学部に所属してたからね、幸いとてもレベルの高い先生がたに恵まれていたからその先生から話を聞けるし、友達からも聞けるし。ひとりで一生懸命に勉強するよりも効率的に、そこから十分な知識は得られたからね。

でもそのうち、ぜいたくなことに、与えてくれる知識よりも自分で本を探しにいくほうに熱中しちゃった。

ちょっと説教くさくなっちゃうんだけど、大学の教育って専門性を極めれば極めるほど、反対に人間としての全体性が欠けていってしまうなと感じていて。卒業して世の中に出て仕事をするとさ、科目なんて境目はないじゃない?

「私は世界史を受験してないからそれはできません」なんていう言い訳はないから。

だからこそ、同じ学部の中でも自分の人間としての特徴を活かすためにもその学部では教えてくれないこともやっておくべきだと思ってるよ。。

大学の学びと、自身で選んだ学びは、どのような比重だったんでしょうか?

正直に言えば個人で選んだ学びの方がずっと大きかったね。古本屋さんに通い詰めて、お金がないから毎回半日くらい入り浸って本を読むんだよ。

そうすると古本屋の親父さんから「買わないならでていけ」って怒られたりして。

図書館よりは古本屋の方が好きだったんだよね。

やっぱり書物は手元に置いておいて、何度も確認したかったから。それに、そういう本たちが自分の視覚の中にあるってことにも満足感をもった。実家の納屋にね、その頃の本がいっぱいあったんだよ。20年、30年とそこにとっておいて。

もちろん図書館には図書館の良さがあって、ぜひ使って欲しいけど、自分が「その本を使ってものを書く、人に何かを伝える」って時にはそんな本は手元においておくと良いよ。

そんな日々は、他の工学部の学生と比べてずいぶんと特殊だったように思います。先生の心象風景はどうなっていたんでしょうか?

心象風景はね、「何のために生きているのか、勉強しているのかわからない」から落ちこぼれだと思っていたよ。他の学生は「こんな企業にいきたい、院にいってこんな研究がしたい」って考える時期だったからね。

一方で僕は何をしたらいいかわからない、何になれるか、何になれるのか、そんな気持ちすらなかった。

そういうことよりも、とにかく本を読むのが面白かったんだよ。異なる学問が自分の頭の中でつながっていく感覚がとても面白かった。

京大の頃に数理生物学っていう本を読んだんだけどさ、なぜミツバチの巣は六角形なのか、イワシはなぜ群れると丸くなるのか、そういうのを数学的に解いていく。難しすぎて途中でリタイヤしちゃったんだけど、でも心に残っている。

先生は、疫学という手段を使ってその問いを解かれているのですね

そうなんだよ。

生き様や、文化や、僕の頭の中でばらばらになったもの、それを一個の単語でどう表すかって考えて、それが「疫学だ」って思ったね。

そうしてベルギーへ留学されたんですね。直前はどんな心情だったんでしょうか?

僕はさ、日本からの正式な留学生じゃなかったんだよ。

そもそも医学部卒だったからマスターをもっていなくって、日本だとそのまま博士に進学することもできるけれど、ベルギーの教授は「マスターがないなら博士の学生としてはすぐにはとれない」ってきっぱり仰って。

だから、1年間は研究生としておいてもらうためにいったんだ。その間の滞在費は全部自費で、その前に一生懸命アルバイトしてお金を貯めたよ。

それでようやく1年間だけは滞在できることになったんだけど、でもそれ以降の資金はないし、何より教授が僕を残してくれるかどうかも分からなかった

医学部を卒業した後の医師としての研究も、普通は2年間なんだけど僕は途中の1.5年で辞めちゃって。もともと「公衆衛生をやる」って決めてたから。

だから研究先の内科の教授にもそう伝えていて、そしたら「臨床研修をして、その上で公衆衛生を学ぶために海外に送る学生はいるけれど、公衆衛生で留学するために臨床研修にきてるのは君が初めてだ」って言われたよ笑。

でも教授は僕に臨床研修をさせてくれたんだよね。

その当時は疫学の教室なんてなかったんじゃないでしょうか?

そうだね、公衆衛生学教室の中で誰かが専門として疫学をやってるくらい。

だからさ、たとえ疫学を学んでも研究室で職をもらえる未来なんてなかったわけ。ましてや海外帰りなんてなおさらだよね。

まさに背水の陣でベルギーにいかれたんですね

そうそう、そうしたら教授からの最初のインタビューで「君は疫学を知らないね」って言われたから笑。

「何をしてきた?」って言われたから、ひたすら旅行してきた話を片っ端からしたのよ。

その研究室はさ、当時は高血圧の疫学を主にやっていて、世界1万79人・52箇所の集団で24時間蓄尿と血圧測定をするっていうとんでもない横断研究。だってその当時メールなんて使えないんだよ?どうやって互いに交流し、測定方法を標準化し、資料を集めて解析するのか。僕がいったラボが尿の分析を担ってたから世界中から尿が集まってた。

それでさ、その研究の地域リストをみたらインドのラダックがあったのよ。

僕ここに旅でいったことがあってさ。北インドの西チベットの街にあるんだけど、標高は3-4,000メートル、チャーンっていうシコクビエから作ったどぶろくみたいなお酒をとにかくたくさん飲むところで。それから塩辛いバター茶。

僕が旅でいったときにはお金がなかったから、飛行機じゃなくて1泊2日のバスで峠を越えるのよ。でも1回目は高山病になって即引き返した、2回目も高山病になって。そうして3回目ようやく成功して。ちなみに2回目などバスに乗るお金もけちって荷物を運ぶトラックの助手席に乗せてもらって峠を超えて2泊3日

そういう話をしたら、教授が目を輝かせながら「すごいところにいったね」っていってさ。

佐々木先生「あそこ血圧高いですよね。あんなにチャーンとバター茶を飲んでるからですかね。」

教授「君は人々の生活をよく見ているね。そうか、民族のEpidemiologyをやりたいんだね?」

佐々木先生「はい」

教授「じゃあテーマを考えよう」

ってことで。

そうしてどんなテーマに取り組むことになったんでしょうか?

世界中の食事調査を集めてみようってことになったんだ。

その当時、研究室がWHOとコラボレーションしていて、WHOが持つ各国の性別・年齢ごとの死亡率データを使って生態学的研究をやってたんだよ。

死亡率のデータはあったけど正確な食事のデータがなかったから、食事と死亡の関連を明らかにできなかった。

国連食糧農業機関(FAO)が集めていた食料自給表があったんだけど、あれはFoodであってNutritionではない。でも栄養学をやるためには食物ではなく栄養素レベルでみないといけない。これが一つ目の欠点だね。そして二つ目は、あのデータはConsumptionであってIntakeではない、つまり実際にどの人たちがどれだけそれを食べたかは分からない。

でね、この問題をクリアするためには「FAOデータと実際の栄養素のIntakeデータの関連」を明らかにする必要がある。もしここに強い関連があればFAOデータを代替指標として使えるっていうことが示せるからね。

それでひたすら図書館にこもって、論文を世界中から集めてたんだ。

それから丸一年はひたすら図書館に通う孤独な日々だった。

「これは無理かもしれない」って心折れながらやってたし、「この留学は失敗だった」とも思ったよ。

でもさ、論文を集めてると面白くてさ。自分が行ったことがない国の人が「どういう食品を何グラムとっていて、こんな栄養素をとっている」ってことがわかってきて。「この人たちこんなに油食べてるの笑」とかね。

例えばさ、ハンガリーって飽和脂肪酸の摂取量が当時ものすごく多かったんだけど、これは森のどんぐりで太った豚を秋の終わりに殺して冬の食糧にしてるからで。ロシアも総脂質量がとても高いって報告をしてる論文があって、これなんでかっていうと寒い寒い冬を越すのに大量のエネルギーがいるから。

医学のことだけ考えると「これは循環器疾患のリスクだからだめだ」なんて安易に言っちゃうけど、この論文を読んで「循環器疾患だけ見てちゃダメなんだ」って思ったよ。

そうして論文の向こう側に人の顔を想像できるのは、佐々木先生が本や旅を通して様々な文化に実際に触れてきたからですよね

そう、あの時の経験が疫学に活きた。

でもその当時はまだPubMed(医学文献のオンライン検索ツール)なんて使えなかったから、ルーベン大学の図書館で論文を読む。ラッキーだったのは僕が日本人だったことだね。まず、西欧の言葉は研究室の誰かしらかが理解できたから力を借りれたし。教授なんてたしか5ヶ国語くらい読めた。僕も、専門分野であれば見慣れてくるから日本語・中国語・韓国語をカバーして。

そしてその少し前にベルリンの壁が崩れていて東ヨーロッパの論文も手に入るようになっていた。ラッキーなことにブダペストからの留学生がいて、彼らは社会主義でモスクワと繋がってたから。だからロシアの論文を入手して、その学生の手を借りてロシア語で読んだりもしたよ。

そうして2年間かけて1,000本以上の論文を読んで、3年目で雑誌に掲載できたね。

その途中で教授から「残りなさい」って言ってもらえて、おまけに博士の学生としてベルギーの奨学金まで取ってくれて、それで研究を続けられることになってさ。

今思えば教授はそういう苦しい作業をやらせて僕の能力を見ていたんだろうね。論文を読んで、そこからリサーチに立ち上げていく資質があるかどうかを。もし研究者の資質がなければ論文を読んでいても嫌がるし、教授のアシスタントで終わっちゃうからね。

そうしてベルギー時代に何本か論文を出すことができて、いよいよ日本に帰る時がきてさ。

そのままヨーロッパに残るという選択肢はなかったんですか?

あったよ。そもそも僕は研究室どうしの交換留学でいったわけじゃないから、残るも帰るも自由で、教授は「日本に帰らずにアメリカかイギリスで働きなさい、推薦するから」って言ってくれた。

教授はね、「君のようなキャラクターは日本には合わないから」って言ってたね。その研究室は日本、韓国、中国とも共同研究をしていて、それらの国の文化構造を正しく見抜いていた。

「日本は素晴らしいし、日本人も素晴らしい、そして時々とても素晴らしい人がでてくる。そして彼らは日本をさらによくする。しかし、その人はその人よりも能力の低い人を後継に選んでしまい、そうして日本の社会はどんどん硬直していく」って言っていた。

そういうことを考えた上で教授は「君は自由が好きだろ?そしてアイデアが好きだろ?そういうキャラクターは日本の構造のなかではおそらく息苦しさを覚えるだろう、そして潰される。だから帰国は勧めない、いろんな人を受け入れる器のあるアメリカにいきなさい」って言ってくれたよ。

でも僕は「帰ります」って言ったんだ。

教授にね、「Nutrition Epidemiologyで世界でいちばんミステリアスな国はどこですか?」って聞いたんだよね。

それはさ、日本なんだよ。西洋と異なるものを食べていて、西洋諸国を超えて寿命が長い。そして西洋諸国と同じ国家体制で、同じデータ収集体制をもってる。なのに論文がない、これは宝の山だよ。

そうして教授は僕が日本に行くことを許してくれた。

「日本にいってしばらく頑張りなさい、でも4年経って芽が出なかったら帰ってきなさい」っていう言葉と共に。

帰国直後はどんな状況だったんでしょうか?

半年間、就職先がなかったんだよ。

公衆衛生学の研究室にアプライしたけど、ひたすら落ち続けた。留学して根無草だったし、すでにけっこうな歳だったし、そして栄養疫学なんてその当時の日本にはないようなもんだったからね。

そして半年後に、ようやく名古屋市立大学の助手になることができたんだけど。

帰国当時はさ、「自由な研究ができないな」って感じていた。ベルギーではボスも学生もフラットに話していたんだけど、日本に帰ってきたら日本のボスとは討論ができなくなって、階級みたいなものの存在を感じた。

そして研究室で話すときも、仕事の話ばかりで。帰ってきてしばらくは孤独だったなぁ。

でも、救いもあった。名古屋に就職した時に、自分で小さな研究を始めたんだ。研究費ゼロで勝手にやっていた研究で、それで研究にはいろんな人を巻き込まないといけないから「こういう研究がしたいので協力してくれませんか?」って交渉して。

そうすると僕に地位もお金もないとわかった瞬間に去る人もいれば、一緒にやってくれる人もいて。そうしてみんなとボランティアで研究を進めていって。

こうする中で、僕は人と話して何かをやっていくことが好きなんだ、得意なんだってことに気づいていった

そこから日本での研究が立ち上がっていくんだ。

 

 

終わりに

今回は、佐々木先生のヨーロッパ留学時代のお話を伺いました。

次回からはいよいよ日本編、最初は就職先もなく、研究費ゼロ円で研究に取り組んでいた佐々木先生が、どのようにしてご本人が「ドロドロの野良の疫学」と言われる疫学を実践し、そして日本に栄養疫学を確立させていったのか。

一つの学問が日本で立ち上がっていく様をお届けしたいと思います。

そしてなんと、ウェビナー事業mERASMUSでは2025年2月から、オンラインスクールmJOHNSNOWでは2025年4月から、佐々木敏先生の疫学の講座を展開します。

タイトルは「ゼロから極める医学研究デザインシリーズ- 教養としての疫学、その魂と熱狂」、単なる知識としての疫学を超え、社会をどう視て、どう生きていけば良いか、そんな胸震える熱狂的体験をお届けします。

【開催概要】

​開催期間:2025年2月23日(土)~2026年1月24日(土)
見逃し配信:2026年2月まで(開催終了した講義も全て視聴可能)​
価格:一般 50,000円     
   学生 25,000円(社会人学生を除く)
受講証発行:有
※研究費等でご参加の方を含め、全ての方に受講証を発行いたします。また、請求書・領収書は数クリックで発行できます。

詳細のご確認やお申し込みは以下のリンクをご確認ください。 https://mmedici.co.jp/merasmus/research/connect/epidemiology

キャリアシリーズ

  • 疫学、その熱狂と魂 - 佐々木敏名誉教授インタビュー
    - Part 1:伝説の疫学講義はこうして生まれた
    - Part 2:地に生きる者たちのための疫学、ヨーロッパから世界をまなざして
    - Part 3:一つの学問が立ち上がり、波紋は広がる その稀有な現象を、栄養疫学という窓から垣間見た

  • 新谷歩教授インタビュー

    - Part 1:アメリカに燃ゆる執念、人事を尽くし教育した医療統計がここに

    - Part 2:アメリカに燃ゆる執念、人事を尽くし教育した医療統計がここに

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