2026.9.29

【熱狂せよ、パブリックヘルス】3億人分のデータが、誰かの命を救う日のために:「臨床研究の民主化」を日本に根付かせる、TriNetX Japan代表の挑戦 - vol.15

「このままでは日本の患者さんが置いていかれるのではないか――。」

コロナ禍、欧米の研究者たちが世界中の患者データをリアルタイムで解析する中、日本にはそのネットワークが存在しませんでした。その問題意識から、若林さんはTriNetXの日本事業立ち上げに参画しました。

本記事は、著者であるTriNetX Japan代表の若林昭吾さんが、医療データの活用や治験の効率化、ドラッグロス解消といった課題に向き合う医師・研究者や製薬・ヘルスケア業界の皆様にお届します。

アフリカでの経験や新規事業の失敗を経て見出した「仕組みで課題を解決する」という信念のもと、3億人超の患者データを繋ぐ「連邦型ネットワーク」が切り拓く医療の可能性と、日本と世界の医療の距離を縮めるための取り組みをお伝えします。

熱狂せよ、パブリックヘルス

本シリーズは、パブリックヘルスの領域で活躍するプロフェッショナルが初学者に向けて自らの専門性を語る自伝シリーズです。その専門性に出会った原点や、挫折の先に見つけた希望、そして今も燃やし続けている信念について、熱量を込めて語り尽くします。

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この記事のまとめ

この記事を読むと分かること

  • 日本の医療データ活用の現状と、世界との差を埋めるための取り組み

  • 「臨床研究の民主化」と治験効率化がドラッグロス解消に果たす役割

  • 公益性のある新規事業を立ち上げ、育てるための経営哲学と信念

この記事は誰に向けて書いているか

  • 医療データの活用やリアルワールドデータ(RWD)に関心のある医師・研究者

  • 臨床研究や治験の効率化・グローバル展開に携わる製薬・医療業界の方

  • 公益性と事業性を両立するキャリアや経営に関心のある方

熱狂せよ、パブリックヘルスシリーズ

  • vol.1:RWDのおかげで親に仕送りできるようになりました(mMEDICI株式会社/廣瀬直紀)

  • vol.3:医療や看護の価値をデータで語れるように(東京大学大学院医学系研究科 健康科学・看護学専攻 看護管理学/森田光治良)

  • vol.6:パブリックヘルスで「事業と社会の越境者」になる(Ubie株式会社 Head of Public Relations、Impact Officer/守屋祐一郎)

  • vol.10:科学の力で「働き方」を変える - 元官僚の社会疫学者の挑戦(慶應義塾大学総合政策学部/社会疫学者・医療経済学者/佐藤豪竜)

  • vol.11:しくみを生み、データを重ね、公衆衛生をひらく - 事業もまた医術である(アイリス株式会社/代表取締役CEO・医師/沖山翔)

執筆者の紹介

氏名:若林 昭吾(わかばやし・しょうご)
所属:TriNetX Japan株式会社 代表取締役社長CEO
専門性:筑波大学第三学群国際総合学類(国際開発学専攻)を卒業後、コンサルティング企業での日本・米国・シンガポールなどでの勤務や日系スタートアップ企業での経験を経て、医療・ヘルスケア業界に関わる。ITを活用した新規事業を得意分野とする。2021年からリアルワールドデータを活用した臨床研究ネットワーク企業TriNetXの日本事業立ち上げに従事し、現在はTriNetX Japan株式会社代表取締役社長CEOを務める。アントレプレナーシップ教育に定評のあるバブソン大学MBA修了後、都内の大学で非常勤講師としてスタートアップ企業論を教える。犬とスポーツをこよなく愛している。

若林 昭吾

コロナ禍、欧米の研究者たちがリアルタイムで世界中の患者データを解析し、次々と研究成果を発表していた。しかし日本には、そのネットワークが存在しなかった。

「このままでは、将来、日本の患者さんが置いていかれるのではないか——。」

その問題意識が、次の挑戦へ踏み出す力になった。

TriNetXを通じて、日本の医療と世界の医療の距離を縮めていく。それが今、私に課された仕事だ。

1.はじめに

現在、医療機関と企業のグローバルネットワークを展開するTriNetXの日本法人の代表として、日本における事業展開を担っています。2021年に日本の第一号社員として入社し、国内事業を立ち上げてきました。

TriNetXは米国ケンブリッジに本社を置き、世界20か国以上で展開する医療データプラットフォームです。患者さんの匿名化されたデータを医療機関の外に出すことなく、「連邦型ネットワーク(Federated Network)」と呼ばれる仕組みで世界中の医療機関を繋いでいます。

我々は、3億人を超える患者データを研究者が活用できる環境を提供しており、これまでにTriNetXを活用して発表された査読付き論文は4,000本以上にのぼります。

TriNetXが担う柱は二つあります。

一つは「臨床研究の民主化」です。

十分な研究実績を持つ大学病院の研究者だけでなく、意欲のある中堅・若手研究者や、地方の医師も、自分のパソコンから世界規模のデータに瞬時にアクセスできる環境を作ることです。

もう一つは、「治験の効率化による新薬開発の加速とドラッグロス問題の解消」です。

日本の患者さんに、世界の新薬を届けることです。

この二つを通じて、日本と世界の医療の距離を縮めていくことが、今の私のミッションです。

2.アフリカで知った「仕組みが人を救う」という真実

途上国の発展を扱う国際開発学を専攻していた学生時代、ケニアで4か月にわたってNPOの開発援助活動にインターンとして携わる機会がありました。

現地で目にしたのは、援助による持続的な改善の難しさでした。

先進国の援助機関やNPOが資金を投じて建てた学校や井戸が、数年後には使われなくなっている。維持するための予算も、運営を担う人材も、地域に根付いた仕組みも十分には残っていなかったからです。

それどころか、外部からの支援への依存が常態化した構造や、支援資金をめぐる行政の腐敗といった負の遺産が積み重なっていく現実を、目の当たりにしました。

「善意は、仕組みなしには届かない。それどころか、仕組みのない善意は、時に害になる——。」

この事実が、私の人生観を変えました。

そしてこの経験が、「公益性と事業性の両立」への強い関心の原点となりました。新卒で政府機関ではなく、民間の開発コンサルタント企業を選んだのも、「社会課題に対して、ビジネスの力を活かして、仕組みとして向き合いたい」という思いからです。

その後、キャリア上の葛藤から別の道を歩み、流通・小売業界を担当するコンサルタントとして新規事業の立ち上げに携わる中で、別の手応えを発見しました。

私が関わったサービスを多くの人が使う瞬間の充実感。「世の中を一歩前に進める」という感覚は、開発学を専攻してケニアに向かった思いと、根っこでつながっていました。

「事業の創出を体系的に学びたい」という思いから、アントレプレナーシップ(起業家)教育に定評のある米国バブソン大学MBAに留学しました。1学年160人程度の少人数コミュニティで、根底にある志向や価値観を共有する仲間たちと学んだ2年間は、かけがえのないものでした。

卒業後は再び大手コンサルティング企業に戻り、米国、シンガポール赴任を含め、6年間にわたって海外事業に従事しました。

しかし、「私が主体的に、社会に意味のある新規事業を作りたい」という思いは、年を重ねるごとにむしろ強くなっていきました。

3.失敗と転換——「新規事業のリアル」を叩き込まれた日々

40歳を過ぎた頃にコンサルティング企業を離れ、50人規模のIoTスタートアップに転職し、高度なセキュリティ技術を核とするスマートホーム事業を担当しました。

しかし、その会社は入社後、短期間で解散。新規ビジネスは野心的であるほど、成功より失敗の方がずっと多い——。スタートアップの洗礼を早々に浴びることとなりました。

一方で、長く大企業にいた私のマインドセットを短期間でリセットする、貴重な経験でもありました。

再び挑戦の機会を探していたところ、医療業界の大手企業が新規事業の責任者を探していることを知りました。正直なところ、ヘルスケア業界に携わることはそれまであまり想像していませんでした。

しかし、ヘルステックと呼ばれるIT×医療の変革期に新規事業を主導できるということと、「社会的意義が大きい領域でゼロから事業を作る」という点が、学生時代からの動機と重なり、入社を決めました。

責任者としてチームをゼロから構築しました。採用したメンバーの多くが医療情報のエキスパートや医療業界出身者で、責任者である私がチームの中で最も業界経験の浅い立場という、異色の状況でした。しかしこれは弱みではなく、むしろ強みだと考えていましたし、会社側の期待もそこにありました。

医療・ヘルスケア業界は公的な性格が強く、規制や慣行の上に成り立っている部分が多い。外から見ると一見非合理に映ることも、業界に長くいる人にとっては疑いようのない前提になっており、発想を転換すること自体が難しくなっていることがあります。

業界経験の浅い私だからこそ、その「当たり前」を疑い、違う角度から問いを立てることができた。そう感じる場面が、少なくありませんでした。

同時に、この業界が日本社会全体に与える影響の大きさも、肌で実感しました。

医療の仕組みが良くなることは、そのまま社会の改善に直結する。その手応えは、学生時代にアフリカで感じた問題意識と、深いところでつながっていました。

そしてこの仕事を通じて、重要な課題を初めて直視することになりました。

病院のITシステムには膨大なデータが蓄積されているのに、そこで生まれたデータの大半が診療だけに使われており、医療を進化させていく研究に活用されずに眠っている現実です。この問題意識が、次の挑戦への火種となりました。

4.可能性を秘めたまま眠るデータの中に、次の使命を見つけた

欧米ではリアルワールドデータ(RWD)の活用が急速に進んでいる一方、日本ではまだまだ限定的であるという問題意識が、この頃から強くなっていきました。

コロナ禍で、米国発の新興企業であるTriNetXが革新的なプラットフォームを国際的に展開していることを知りました。

「連邦型」と呼ばれる仕組みで、患者さんの個人情報を病院の外に出すことなく、世界中の医療機関をネットワークで繋ぎ、3億人超の患者データを解析できます。研究者がクラウド上から解析条件を指定すると、各医療機関内で解析が行われ、その結果が研究者に提示されます。

欧米の研究者たちは、TriNetXのネットワークを通じてリアルタイムに世界中の患者データを解析し、研究成果を次々と発表していました。未知のウイルスに対して、世界は瞬時にデータで向き合っていた。

しかし当時、日本にはこのネットワークが存在しませんでした。

「この事業は、これまでにない形で、日本の医療の未来に大きく貢献できる」

そう確信して、日本事業の立ち上げを引き受けることを決意しました。

これまでの仕事がITを活用した医療の質・オペレーションの改善でしたので、そこから生成されたデータの活用という隣接領域に引っ越してきた、という感覚です。

患者データという繊細な領域に新たなプラットフォームを根付かせるには、何より信頼が先にあると確信していました。近年、医療機関へのランサムウェア攻撃が相次いだことで、データ活用に対して慎重な姿勢をとる医療機関が増加しました。その懸念は当然のことであり、私たちは、その懸念に時間をかけて丁寧に向き合う姿勢を貫いてきました。

ただ一方で、過度な恐れが活用の機会を閉ざしてしまうと、その代償は最終的には患者さんへ不利益という形で返っていきます。新しい治療法の開発が遅れ、有効な薬が届くのが遅くなる——。

現代において、プライバシーやデータを守ることと、データを活かすことは、対立ではなく両立させるべき課題です。

TriNetXの連邦型ネットワークは、患者データを医療機関の外に出さずにデータを多施設で統合して解析できる仕組みを採用しています。セキュリティへの懸念が強い医療機関にとっても、データ活用への第一歩を踏み出しやすい設計になっています。この仕組みは技術的な優位性であると同時に、信頼構築の出発点でもあります。

だからこそ、法令を遵守するのは当然の前提として、それ以上の丁寧な対応を自社でも実践し、参加医療機関にもお願いしています。

セキュリティやコンプライアンスへの真摯な対応、学会等での誠実な情報発信、そして医療機関との関係を一つひとつ積み上げてきました。その積み重ねが今日のTriNetX Japanの土台となっています。

TriNetXの活動を通じて、日本の医療データ活用に対する社会全体の信頼を育てていく。それは、RWDに関わる上で忘れてはいけない、長期的な使命だと思っています。

5.最前線にいる喜びと、背負っている責任

嬉しいことに、日本の研究者によるTriNetXを活用した研究成果が年々増えてきており、有力ジャーナルに掲載されるものも出てきました。研究に利用可能な日本の患者データも、電子カルテベースでは国内最大級の規模となり、成長を続けています。

RWDの活用はまだ発展途上にあります。AIの進化がさらにその可能性を爆発的に広げようとしている今は、まさに変曲点です。

「日本の医療を世界の医療の革新と繋ぎ、日本発のイノベーションに貢献する。」その最前線に立てることへの喜びと、同時にこの責任感を、常に胸に抱いています。

次のパンデミックへの備えも含め、TriNetXというプラットフォームを通じて日本と世界の医療の距離を縮め、データが眠らない日本を作ること——。その思いを胸に、今日も仕事に向き合っています。

・ドラッグラグ・ドラッグロスとは:海外で承認された薬が日本では遅れて承認されたり、承認されていない状態を指します。これにより、患者さんが治療を受ける機会を逃すことがあります。
・アントレプレナーシップ教育とは:自ら社会課題を見つけ、課題解決に向かってチャレンジしたり、他者との協働により解決策を探究したりすることができる知識・能力・態度を身に付ける教育

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【熱狂せよ、パブリックヘルスシリーズ】

  • vol.1:RWDのおかげで親に仕送りできるようになりました(mMEDICI株式会社/廣瀬直紀)

  • vol.3:医療や看護の価値をデータで語れるように(東京大学大学院医学系研究科 健康科学・看護学専攻 看護管理学/森田光治良)

  • vol.6:パブリックヘルスで「事業と社会の越境者」になる(Ubie株式会社 Head of Public Relations、Impact Officer/守屋祐一郎)

  • vol.10:科学の力で「働き方」を変える - 元官僚の社会疫学者の挑戦(慶應義塾大学総合政策学部/社会疫学者・医療経済学者/佐藤豪竜)

  • vol.11:しくみを生み、データを重ね、公衆衛生をひらく - 事業もまた医術である(アイリス株式会社/代表取締役CEO・医師/沖山翔)