
私は、医学部時代には将来に悩み大学を1年間休学し、研修医1年目にはスランプを経験して「もう医師を辞めたい」と思いました。
呼吸器内科の責任者になってからは、医師不足の中で、地域の多数の呼吸器疾患患者を「自分の両肩に背負う」という凄まじい重圧の中、大きな不安に苛まれる日々を経験しました。
それでも、著者の亀田総合病院呼吸器内科主任部長の中島啓先生は何とか医師を20年間続けることができ、現在、亀田総合病院呼吸器内科で、臨床・教育・研究を行い、地域医療を通して世界へエビデンスを届けることに取り組んでいます。
本記事では、私の遠回りや挫折の経験が、どのようにして「自分自身のミッションに気づくこと」「人生でやるべきことに覚悟を持つこと」に役立ったかを共有します。
「二度とあの時に戻りたくないと感じる人生で最も辛い経験が、"自分の人生を変える宝"になりえるということ」を、皆様に示せれば嬉しく思います。
自分の現状や将来のキャリアに悩む医学生、研修医、若手医師が、勇気を持って一歩を踏み出すためのヒントになれば幸いです。
本シリーズは、パブリックヘルスの領域で活躍するプロフェッショナルが初学者に向けて自らの専門性を語る自伝シリーズです。その専門性に出会った原点や、挫折の先に見つけた希望、そして今も燃やし続けている信念について、熱量を込めて語り尽くします。
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遠回りや挫折の経験を昇華し、自分のミッションや次の挑戦につなげる考え方
日々の診療を臨床研究に発展させる方法
臨床、教育、臨床研究をつなぎ、市中病院から世界へエビデンスを届ける視点
自分の進路や、自分らしい専門性の築き方に迷っている若手医師、医療者
臨床を大切にしながら、教育や研究にも取り組みたいと考えている医療者
市中病院や地域医療の現場から、パブリックヘルスに貢献する方法を探している医療者
vol.2:女性の健康における社会課題へ挑み続ける(産婦人科専門医/重見大介)
vol.4:全ての人を笑顔にするために - 医師が発信すべき理由、私の挑戦(京都大学消化管外科/山本健人)
vol.5:科学と感情のあいだで - 誤情報と偏見を越えるために(ハーバード大学医学部准教授・マサチューセッツ総合病院小児うつ病センター長/小児精神科医/内田舞)
vol.9:エビデンス原理主義者の戯言 - そう言われた医学生がエビデンスにこだわり創る側へ(東京大学大学院医学系研究科/精神科医/古川由己)
vol.11:しくみを生み、データを重ね、公衆衛生をひらく - 事業もまた医術である(アイリス株式会社/代表取締役CEO・医師/沖山翔)
氏名:中島 啓
所属:亀田総合病院呼吸器内科
専門性:2006年九州大学医学部卒。2009年より亀田総合病院呼吸器内科に勤務し、現在は同科主任部長、内科チェアマン。呼吸器感染症を専門とし、肺炎、非HIVニューモシスチス肺炎、非結核性抗酸菌症・気管支拡張症、成人ワクチンを主な研究テーマとする。患者さんに良い医療を行うために、EBMを実践。その過程で生まれた疑問を臨床研究で解決し、エビデンスを創造する「Evidence-based and creating medicine、EBCM」を実践。単施設研究から多施設研究、観察研究からランダム化比較試験まで、幅広く臨床研究に取り組み、臨床、教育、研究の3本柱を達成することを目指し活動。
著書:
・レジデントのための呼吸器診療最適解
・呼吸器内科診療の掟
・臨床医のためのライフハック(「診療・研究・教育」がガラッと変わる時間術)


診療を優先しながら、学び・研究・教育・発信、そして家庭も大切にするには、日々の仕事をどのように組み立てればよいのでしょうか。
亀田総合病院 呼吸器内科 主任部長の中島啓先生が、ご著書『臨床医のためのライフハック』とご自身の実践経験をもとに、忙しい医療者が無理なく成果を積み重ねるための考え方と具体策を解説します。
時間管理や学習・業務効率化をはじめ、教育・ウェブ発信、臨床研究・執筆、組織マネジメント、生成AIの活用までを全6回で学び、自分らしい臨床キャリアを築くための一歩につなげる講座です。
本講座は、mMEDICIが運営するオンラインスクール「mJOHNSNOW」にて、2026年10月26日よりオンデマンドで順次配信予定です。詳細はこちら

「もうダメだ。医師を辞めたい——。」
研修医時代、私は深いスランプの中にいた。
数カ月、必死にもがき続け、気づけば暗闇を抜けていた。
ある当直明けに、病院を出ると、空は透き通るほど青かった。その瞬間、私は誓った。
「もうダメだと思う状況から奇跡的に復活した。私は1度死んで、新しい命をもらったようなもの。この先の人生を、自分に与えられた命を人のために使おう」と。
私は、亀田総合病院呼吸器内科の主任部長、内科チェアマンとして、南房総で地域医療に携わりながら、若手医師の教育、臨床研究、診療科運営に取り組んでいます。
専門は呼吸器感染症です。なかでも、非HIVニューモシスチス肺炎の診断と治療、肺炎球菌やインフルエンザなどの成人ワクチンを中心に研究してきました。呼吸器内科では、肺炎のような急性疾患から、喘息やCOPDなどの慢性疾患、肺癌、緩和ケアまで、患者さんに全人的に関わります。
私にとって、臨床、教育、研究は全てつながっており、相乗効果を生んでいます。
目の前の患者さんに最高の医療を届けるためのEBMの実践から、良いリサーチクエスチョンが生まれ、良き臨床研究につながります。良き臨床研究に取り組むことは、良き教育と診療につながります。
地域医療を実践して患者さんの健康と幸福に貢献し、現場から生まれた臨床研究で、エビデンスを創造して、世界に届ける。そうして得た新しいエビデンスが、目の前の患者さんを助けることにつながる。
EBMを実践するだけでなく、現場の診療科から得られた疑問に対して臨床研究を行い、エビデンスを創造すること。つまり「Evidence-based and creating medicine、EBCM」を実践していくことが、私の信念であり、ライフワークと考えています。
高校までは、いわゆる「敷かれたレール」に乗っていたと思います。学年の約半数が医学部に進学する私立高校に入学し、受験勉強を経て、ストレートで医学部に入学しました。
いわゆる「優等生」的な進路をたどり、大きな失敗もありませんでした。このまま医師になり、専門を決めて臨床医として働く。そのような道を、どこか当然のように考えていました。
しかし、明確な目標もなく、流れで医学部へ入ったため、「自分がどのような医師になりたいのか」が見えてきませんでした。
医学の勉強は重要です。病態を理解し、診断と治療を学ぶことは、医師として最も大切なことです。一方で、当時の私は、臓器ごとに分かれた知識を積み上げる中で、「何か違和感のようなもの」を感じていました。たまたまだと思いますが、大学で私が出会う医師達は、「患者さん」という人ではなく、「臓器」や「病気」ばかりを診ているように感じてしまったのです。
将来の目標が定まらないことと、高校時代に勉強ばかりしていたことの反動か、私は医学部ではあまり勉強をせずに、友達と遊んでばかりでした。
そうして、いよいよ将来に悩み、臨床実習が始まる前に、私は周囲の反対を押し切って、1年間大学を休むことにしました。
学年担当の教授からは「そんなことをすると、君は社会性を失うぞ。」と言われ、友人たちからも「やめたほうが良い」と反対されました。
しかし、「休学中は米国に数か月間の語学留学をしたい」という自分の意思を伝えると、父親だけは「そのような経験はきっと将来の糧になるだろう」と、私の判断を肯定してくれました。母も最後は折れて休学を許可してくれました。
生まれて初めて自分自身で「人生を変える大きな決断」をした瞬間でした。同時に初めて「敷かれたレールから自分が落ちた」瞬間でした。
レールから外れた自分は、当初は休学が何かにつながるのかが分からず、漠然とした不安がありました。同級生が先へ進んでいく中で、「自分はこの先どうなるのだろうか。何かをつかみ、医学部に本当に戻れるのであろうか。」と心配する日も多かったです。
そのような不安をかき消すべく、休学中は、色々なアルバイトをしたり、様々な本を読み、たくさんの人に会いました。そのような中、自分の人生を大きく変える本との出会いがありました。
父の知り合いの歯科医師が、「将来に悩んでいるなら、この本を読んでみなさい」と、日野原重明先生の「生きかた上手」を渡してくれたのです。その本には、次のように書かれていました。
「医師は、臓器や病気だけを診るのではなく、心も含めた患者さんという"人間"を診るべき。さらには家族のケアも含めて行わなければいけない。」
いわゆる全人的医療が語られていました。
私はこの一文を読んだ時に「かっこいい。自分が目指すべきものはこれだ」とビビッと感じたのです。
さらに、「日本は基礎研究は強いが、臨床医学教育と臨床研究はまだ不十分である。良い医療をつくるには、臨床だけでなく、医学教育と臨床研究も大切だ」という考え方も書かれておりました。
「自分も臨床・教育・研究が実践できる医師になりたい――。」
初めて、自分が目指すべき具体的な医師像を見出すことができました。その感動が、「もう一度医学の道を歩みたい」という原動力になり、私は復学を決めたのです。
休学中は米国に4か月の語学留学もしました。最初の2週間は友人達とルート66という米国の国道を、モーテルに泊まりながら、車で横断する旅をしました。その後、自分一人だけが米国に残って、自力で滞在先を見つけ、ニューメキシコ州のサンタフェに数か月ホームステイを行い、サンフランシスコの安宿に1か月滞在しました。
米国は1から10まで何もかもが日本と違っていて、価値観が大きく揺さぶられました。車一つを取っても日本より一回り大きく、広大な自然を見て、世界の広さを感じました。英会話のレベルも多少向上し、今の学術を中心とした国際的活動にも役立っています。
上記のような貴重な経験をして自分の「ミッション」を見出し、復学をしました。無事国家試験はぎりぎりでクリアして、医師になりましたが、すぐに私は試練を迎えました。
大学時代の勉強が不十分であり、知識と技能が大きく不足していたのです。そのため、研修医1年目の外科研修で、大きなスランプに陥りました。
手先が不器用なため手技が下手で、自分の担当患者のプレゼンもしどろもどろでした。対照的に、同時に外科をローテしていた同期は皆優秀で、プレゼンも完璧で、私と医師としての技能の差は歴然としていました。
「自分だけが取り残され、このまま無力な医師のまま終わるかもしれない」と、不安と恐怖を毎日感じていました。
朝、病院へ向かうことがどんどんつらくなり、「もう医師を辞めたい。自分は医師に向いていない。このまま仕事を続けられず、自分の人生は終わるかもしれない」と思うほど追い詰められました。
朝もなかなか起きられず、今思えば「うつ状態」に近かったと思います。そのような中、私の休学の経緯を知る先輩から声をかけられました。
「辞める前に、あと3か月だけ頑張れ。何のため休学して自分の道をみつけたんだ。でも、3か月頑張っても、続けるのが無理と感じるなら辞めてもいい」
「辞めてもいい」と言われたことで、少し肩の力が抜けました。
すぐに何かが変わったわけではありません。それでも、あと少しだけ頑張ってみようと思えました。
その後、外科研修を終え消化器内科研修に入ると、たまたま研修医が少なく当直が2日に1回の頻度であり、悩む暇もないほど忙しい日々が始まりました。必死に診療に取り組む中で、少しずつ臨床能力を身につけ、自信を取り戻していきました。
消化器内科の先生方とはとても気が合い、診療の後に、よく食事にも連れて行ってくださり、毎日がだんだん楽しくなってきました。
すると気づけば、私はスランプという暗闇を抜けていました。
「もうダメだ」と思う状況から復活したため、ある意味で「極限状態から生還した」ような感覚がありました。そして、消化器内科研修中の当直明けに、自宅に帰る際に、透き通る青空を見たときにこう感じたのです。
「自分は1回死んだようなものだ。でも、奇跡的に復活することができた。これは、神様が助けてくれ、新しく命を授かったんだ。」
「だから、これからの人生は自分のためではなく、授かった命を人のために使うんだ」と決意したのです。「日野原重明先生やウィリアム・オスラーが実践してきたことを、今度は自分がやるんだ」と誓いました。
このスランプの経験は、若い医師を教える姿勢にもつながりました。後期研修医時代に研修医教育を担当した際に、うまくできない研修医を見ても、「自分も昔は同じように何もできなかった」と相手に共感することができました。
そして、指導においては、研修医に自信を持たせて長所を伸ばすために、「9割褒めて、1割だけ教える」という原則で取り組みました。今思えば、この教育への姿勢が、亀田総合病院で史上初めての「診療科ベストティーチャー5年連続受賞」という結果にもつながったのかもしれません。
内科研修で自信を取り戻した後、全人的医療の実践に日々取り組みました。
そのような中、私は呼吸器内科に徐々に惹かれていきました。肺炎、喘息発作のような呼吸不全を伴う急性疾患を救急外来で診て人の命を救うことに取り組む一方で、外来診療では、喘息、COPD、間質性肺疾患など、患者さんと長く付き合う疾患もあります。
感染症からアレルギー、自己免疫疾患、肺癌という幅広い内科診療があり、そして、緩和ケアにも取り組みます。患者さんを急性期から慢性期までトータルに診る呼吸器内科は、私が憧れた全人的医療が実践できる診療科だと感じました。
「少しでも日野原先生やオスラー先生に近づくためには、優れた環境で自分を磨きたい」。そう感じました。全国から若手医師が集まる臨床と教育のメッカである亀田総合病院で呼吸器内科後期研修を行うことを決めました。
赴任してすぐ「世の中にこんな世界があったのか」と衝撃を受けました。
医師達が当たり前のように、診療の合間にUpToDateをチェックして、自分の医療が正しいのかを確認しながら、診療を行っていました。日野原先生が本に書いていたような、正真正銘の「Evidence Based Medicine(EBM)」を目の当たりにすることができたのです。
さらに、どの診療科の指導医達も、当たり前のように自分の時間を大きく割いて、初期研修医や後期研修医に教育を行っていました。病院全体に「研修医・若手医師を育てる」文化が育まれており、そこにはまるで"息を吐くように"実践される医学教育があったのです。
そして、目の前の患者さんをよく診ること、論文を読んで考えることが、分断されていませんでした。勉強することのすべては「目の前の患者さんのため」でした。さらに診療で忙しい市中病院でありながら、周囲の医師は臨床研究にも取り組んでいました。
「自分が目指していた臨床医学は、ここにあったんだ」と心から感じたのです。さらに、人生で初めて、同じ魂を持つ「同志」と呼べる仲間達に出会えたことも、私にとって最大の幸運でした。
私の臨床研究の始まりは、決して華やかなものではありません。医師3年目に初めて学会発表をした時は、どう準備すればよいのかも分からず、スライド作りから悪戦苦闘しました。本番では緊張で頭が真っ白になり、発表もボロボロで、「穴を掘ってでも入りたいくらい」の大恥をかきました。
自分は臨床研究や学術活動には向いていないと思いました。
でも、亀田総合病院に来ると、普段私とふざけあっている同僚たちが、どんどん臨床研究を行い論文を出し、国際学会での発表に挑んでいました。「あの同僚たちができるなら、私もできるかもしれない」と思い、再度臨床研究に取り組み始めました。
後ろ向き研究では、多くの患者さんのカルテを閲覧することを通して、多くの症例を疑似体験できるため、臨床能力も向上しました。症例報告論文を書くことは自分の知識に楔を打つことにもなり知識の定着につながりました。
臨床の中から生まれた疑問から、リサーチクエスチョンを見出して、論文も書き始めました。良き指導者や仲間との出会いもあり、少しずつ臨床研究の力もついてきました。すると論文を深く読めるようになり、教育する力もさらに身についていったのです。
こうして、臨床、教育、研究が一本の線でつながりました。
EBMを実践しながら、良き臨床に取り組むことで、重要なリサーチクエスチョンが生まれ良い臨床研究につながる。臨床研究を通して得た知識、臨床能力や論文を批判的に読む力は、良き教育にもつながる。臨床研究で自分たちの診療を振り返ることで、診療の質も高まる。
私は、呼吸器内科医として、診療・教育・研究の3本柱に取り組むことが、自分のライフワークとなったのです。
私にとって、臨床研究は、研究のための研究ではありません。「患者さんに良き診療を届けるため」に、臨床研究に取り組んでいます。
呼吸器感染症の診療では、既存のエビデンスに答えのない場面に何度も出会ってきました。特に、非HIVニューモシスチス肺炎の診療では、第一選択薬であるST合剤の副作用による治療中断が切実な問題でした。
ですがEBMを実践しているうちに、実はガイドラインに書かれた「ST合剤標準量」にエビデンスが全くないことに気づきました。そこで、ST合剤を「標準量」より少ない用量で投与する「ST合剤低用量治療」を実践し、単施設の後ろ向き研究の論文をまず出しました。
そして多施設研究を行い発表した論文は、呼吸器内科領域でも有力な国際誌Chestに採択され、NEJM journal watchでも注目論文として取り上げられました。とにかく「目の前の患者さんに良き医療を届けたい」という思いが研究の出発点でした。
ワクチン研究も同じです。肺癌患者さんにインフルエンザワクチンは十分な免疫応答をもたらすのか。肺炎球菌ワクチンとインフルエンザワクチンを同時に接種しても抗体価は十分に上がり、安全性も許容されるのか。高齢者や慢性疾患を持つ患者さんに、どのように予防医療を届けるべきなのか。
ワクチン研究は、個人の感染症予防であると同時に、社会全体の疾病負荷を下げるパブリックヘルスそのものです。
私は、これまで述べてきたように診療においてはEBMの実践を大切にしています。しかし、現状のエビデンスが、目の前の患者さんに当てはまらないことは多いです。
EBMを行っていると「どこにエビデンスがあり、どこにエビデンスがないのか?」が分かってきて、解決すべきリサーチクエスチョンが生まれてきて、これが臨床研究につながるのです。
「EBMを実践しながら、臨床現場からエビデンスを創造していく」。私はこれを、"Evidence-based and creating medicine、EBCM"と呼んでいます。EBCMを通して、地域の臨床から、世界にエビデンスを届けることを目指しています。
このような思いで診療に取り組んでいましたが、2019年に呼吸器内科の責任者になった時、私は再び大きな試練を経験することになります。
当時、診療科は深刻な医師不足を抱えていました。常勤医が大きく減り、責任者となった自分には「この地域の呼吸器の患者さんを、自分がすべて肩に背負っている」ようなプレッシャーを感じました。
当院呼吸器内科は入院患者が60〜70名おり、多数の外来患者もおりました。通常は医師10〜11名で何とか診療が成り立つ人数でした。そうした中で、自分が責任者となった年は医師8名からのスタートでした。実際はローテで1、2名の専攻医が抜けるので、6〜7名と毎月のローテーターで成り立っている状態でした。
さらに翌年には医師が1名減少しました。でも、専攻医に過度な負担をかけないよう、現在の呼吸器内科の中核となるスタッフ3名のみで全ての初診外来診療を行いました。入院患者の担当数も、多くは主要スタッフが受け持ち、専攻医には適切な患者数を配分しました。
医師不足を補うため人を集めるには外部への発信も必要です。恥を捨てて実名で顔写真付きでX(旧 Twitter)を始めたのも、この時期です。「自分自身が透明になって、広告塔になるしかない」と覚悟しました。
Xでは、日々、呼吸器内科のクリニカルパール、若手医師や研修医に役立つ心構えや仕事術を発信し続けました。独自の内容だったためか、徐々にフォロワー数も増えていきました。研修医向けの呼吸器内科の教科書(「レジデントのための呼吸器診療最適解」)もこの時期に書きました。
「人を集めることに役立つ」と信じ、ゴールデンウィーク、年末年始を含むすべての休日を利用して、孤独にひたすら本を書いていたのを昨日のように覚えています。
人が少なく大変な中でも、若手医師に接する際や、カンファレンスにおいて「呼吸器内科の面白さを伝える」ということを心がけました。苦しい中で、同じような危機的状況を経験したことのある他院の部長にもアドバイスを求めました。
「人が少ないときはいろいろな問題が起こる。でも、スタッフ・専攻医と患者さんの幸せだけ考えれば、きっと道は開けるよ」
この言葉を聞いた時に、私は、あらためて研修医時代にスランプから抜けた時を思い出しました。「そうだ。自分は授かった命を人のために使うと決意したんだ。同僚たちと患者さんの幸せだけを考えていくんだ。」とあらためて誓いました。
「夜明け前は一番暗い」といいますが、この時もまさにそうでした。日々自分自身の疲労も主要スタッフの疲労も蓄積し、「いつだれが倒れてもおかしくない」状況でした。
翌年どうなるかわからない、診療科も崩壊するかもしれないという、不安と恐怖に怯えながら、本を読みながら自分を鼓舞し、診療を続けました。
すべてをやりつくして、最後は「天に祈る思い」でした。
すると、責任者となって2年目の夏に「ぜひ来てほしい」と思っていた他院の研修医2年目の先生から当科入職を希望するというメールが来ました。さらに、他院から短期研修で来ていた医師が、翌年度入職する希望を出してくれました。大学病院からも1名医師を派遣してくれることが決まりました。
責任者となり3年目で医師が何とか10名まで増加しました。
スタッフの誰かが脱落しそうな状況であれば、「肺炎を他の内科で診てもらう」など、他科の力を借りることもできたと思います。ただ、私とスタッフは、「地域の呼吸器内科の患者さんたちは自分たちで診るんだ」というプライドがありましたから、他科には頼りませんでした。
そして、私が責任者になったからには、決して専攻医を1人も脱落させないという意地もありました。どんな逆境の中にあっても、命がけで信念を持ち続ける姿を、専攻医達も見てくれていたのかもしれません。
こうした姿勢で取り組むうちに、口コミやSNSを通じて、同じ志を持つ医師が一人、また一人と集まり始めました。今では、全国から見学者が訪れ、研修を終えた専攻医の多くが、スタッフとして残ることを希望するようになりました。
一時は7人まで減った診療科は、徐々に増えていき、現在では22人となり日本の呼吸器内科としては最大規模の人員となっています。
今になって見れば、私が自分のミッションに気づくことができたのは、医学生時代にレールから外れる決断をしたおかげでした。さらに、自分がやると決めたことに「命をかけて」取り組む覚悟を持てるようになったのは、今でも二度と戻りたくない研修医時代のスランプの経験を通して、「自分の命は人のために使う」と決意できたおかげです。
人生で最も辛かった経験が「自分の人生を変える宝」になったのです。
私の挑戦は、まだ続きます。3年前から米国胸部学会に毎年参加して、ネットワーキングディナーにも参加することで、徐々に海外人脈も増えてきました。これからは、日本だけでなく、海外の医師とも活動を共にして、国際多施設共同研究を目指すフェーズに入ったと考えています。
日野原重明先生やウィリアム・オスラー先生という憧れのロールモデルに少しでも近づけるよう、もう一段階高いレベルで世界にインパクトを与えるような臨床・教育・研究に取り組みます。
国際的な文脈においては、私はようやくスタート地点に立ったにすぎません。今から日本の現場の仲間たちと共に、世界の医師と共同して、「いかに世界を良くすることに貢献できるか」が、勝負と考えています。
私が呼吸器内科医として大切にしているのは、患者さんを心も体も診る全人的医療を実践することです。さらに、EBMを実践して、目の前の患者さんに最高の医療を届けることです。
そして、EBMの実践を通して生まれた疑問を臨床研究で解決し、エビデンスを創造する。専攻医を教育し、臨床・教育・研究が高いレベルで実践できるようにする。育った研修医に日本各地へ羽ばたき活躍してもらう。
亀田総合病院呼吸器内科では「Local, Happiness, and Global」という理念を掲げています。南房総で地域医療に取り組み、スタッフ・専攻医の幸福と成長も達成する。そして、日本と世界の臨床と教育の発展に貢献するという意味です。
世界を目指すことは、地域医療から離れることではありません。むしろ、目の前の患者さんのために一生懸命医療に取り組むことから、世界につながる臨床研究が生まれ、サイエンスを進展させることができるのです。
私の好きな言葉に「一燈照隅 萬燈遍照」(いっとうしょうぐう まんとうへんしょう)があります。一人一人が自分の持ち場を照らし、その光が集まれば、やがて社会を照らす力になる。医療全体、社会全体が変わっていく。
「自分の持ち場で輝く医師」を日本全国に少しでも増やすために、私は、これからも臨床・教育・研究に取り組み、チャレンジを続けていきます。

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