2026.9.22

【転生した女医M、癒し系疫学でほっこり覚醒する】RWD、下から見るか? 横から見るか? - vol.3

「データばかり見ていないで、目の前の患者さんを診るべきだ」

リアルワールドデータ(RWD)は、多くの患者さんの診療情報から新たな知見を生み出す一方、データと向き合うほど、一人ひとりの顔や声から遠ざかったように感じることがあります。
臨床研究に携わる人なら、数字の向こうにいる患者さんとの距離について、考えたことがあるかもしれません。

本シリーズvol.3では、臨床からRWD分析へ軸足を移そうとするMちゃんが、自身の迷いと向き合います。

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この記事について

シリーズ紹介

「疫学」と聞くと、多くの人は難しい数式や統計、感染症などを思い浮かべるかもしれません。
しかし、本来の疫学は「人がどう生き、どう健康でいられるのか」を考える学問です。

本連載では、パブリックヘルスの世界へ転生した女医「Mちゃん」が、日々の出来事や人生の小さな気づきを入り口に、疫学というレンズを通して社会や世界を見つめます。
身近なテーマから疫学の考え方に触れる、やさしい疫学エッセイです。

執筆者:Mちゃん

臨床医として日々患者さんと向き合うかたわら、少し前にうっかりパブリックヘルスという異世界に転生してしまったワーママ。mJOHNSNOW1期生。mJの山のようなお宝オンデマンド動画を周回してスキルを習得しながら、疫学を「割り切れない感情をどうにかして割り切りたい時の標準装備」として密かに愛用している。小難しい顔した疫学を、少しだけ身近に感じてもらえたら嬉しい。
カレーはライス派、納豆にはネギ入れるタイプ、ルパン三世なら断然次元が好き。

RWD

「Mちゃんさ、最近データばっか見てるんじゃないの? 本当に大事なのは、目の前の患者さんだろ!」

臨床医の末席に細々と生きてきて、久しぶりに会った同級生から、こんなありがたいお言葉をいただいた。ノンアルを飲む手が止まったが、言葉は出てこない。
データを見て何が悪いんだよ!」そう咄嗟に反論できない自分に嫌気がさした。痛いところを突かれたのだ。

臨床医として、リアルワールドデータ(RWD)分析に軸足を移そうとしているのは正しいことなのか。

学生の頃も医者になってからも、目の前の患者さんをどう「診る」かをひたすら叩き込まれた。だから、患者さんの顔が見えないRWDと向き合う仕事へとシフトすることに、理由のない恐れや後ろめたさを感じている。
そして今日、「患者を見ずにデータしか見てない医者は医者じゃねえ」と看破され、考え込む。
あんた学生の頃ろくに講義受けずに女の子と遊び散らかしてたじゃん。悔しいからそう言ってやりたいけど、言えない。

RWDは、顔の見えない情報群である。むしろ患者さんの苦痛や物語は綺麗に匿名化されている。
圧倒的な数の暴力でエビデンスという名の実績を叩き出し、「現実世界」という泥臭い名前までつけられているにもかかわらず、時に無味乾燥扱いされる不憫な存在。

そう、まるで、成績学年トップかつ運動神経抜群、ちょっと頭は固いけれど真面目で根が優しい寡黙な生徒会長。
しんとした放課後の教室でひとり人知れず学級日誌を書いていたら、廊下を通りかかった野球部のムードメーカーが「あいつにできない奴の気持ちなんてわかんないよな」と小さくつぶやいているのを偶然耳にして思わず目を伏せる、そういう、なんにも悪いことしてなくても何故か誤解されてしまう、遠い存在。
たとえば──。


「Mちゃん(※ワイ)、次、行くよな?」

一次会の居酒屋ですでに出来上がっている先輩が、二つ隣の席からテーブルに身を乗り出すようにして声をかけてきた。

「すみません……。今日はこれで帰ります」
「えー、なんでだよ、Mちゃんいないと盛り上がんないよ!」

名門私大アメフト部出身の先輩は営業部のエースだ。嫌いじゃないけど、今夜いつもとは違う圧を感じるのは気のせいだろうか。

「……すみません。私、お酒全然強くないし、明日も朝一でプレゼンが入ってて……」
「次のアイリッシュバー、超いい感じの酒揃ってるんだよ、ちょっとだけ、一杯だけ飲んで帰ればいいじゃん、なんなら俺、帰り送るしさ」

先輩がこう言い出すと簡単には押し戻せない。体育会系の勢いは時にえげつないのだ。私が言い淀んでいると、突然、

「先輩、Mさん、困ってるみたいですから」

飲み会の間中、一言も話さず黙ってお酒を飲んでいたR君が、控えめだけどはっきりとした口調で割って入ってきた。普段余計なことは一切口にしない彼が発言すると、整然とした正論を前にみな身構えてしまう。

「R、お前さ……邪魔すんなよマジで……」

静かに自分を見つめるR君にそれ以上言い返すことはなく、先輩は小さく舌打ちして二次会の流れへと消えていった。


「R君!」

会計している間にさっさと姿を消したR君をやっと見つけ、私は道行く人からの視線も構わず彼の背中に声をかけた。
驚いたように立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返ったR君は、眩しいほどスーツが似合うのに、今でも生徒会長の頃と同じ、なんとなく物慣れないままだ。

「R君、さっきは本当にありがとう!私先輩になんて断っていいかわからなかったから、ほんとに助かった。ごめんね、変な役回りさせちゃって」

急いで彼に追いつき、息を切らせながらお礼を言う。R君は目を伏せ、

「いや、別に……慣れてるから」

低い声でぽつりとつぶやくと、また歩き出した。

「R君、私ね、R君のこと、すっごく優しい人だって思ってるよ」

長い足が止まる。

「みんなに言いにくいこともちゃんと言ってくれるし、いつもあんまり喋んないけど、R君が周りのことよく見てるの、私知ってるよ。私、私ね……」

言葉は溢れそうなのに声が震える。どうしてもっとうまく言えないんだろう。
同じクラスの彼に、とうとう一度も話しかけられなかった高校時代。
惹かれてるのに気づかないふりをして、遠巻きに見てるだけだった私。
部活の友人にからかわれそうで怖かった。冷たくなんかないのに、ただ誠実なだけなのに、彼はいつもひとりだった。でも、今ならきっと。

街灯の光が雨上がりの歩道に反射する。涙がこぼれそうになり下を向くと、予想よりずっとそばに彼の気配を感じた。

「……ッ、暑いな」

少し掠れた声。彼は常にきっかりとめているワイシャツの一番上のボタンを開け、ネクタイを乱暴に緩めた。
その瞬間、彼らしくないムスク系のトップノートが微かに立ち上る。触れそうなくらいの距離に近づいて、初めてわかる。
それはまさかの、ドルチェ・アンド・ガッバーナ──。


みたいな。
そんな、私とR君(RWD)との関係。

私がRWDをただの「顔の見えない情報群」だと思い切れないのには、理由がある。

以前、800人分の臨床データをひとりで取る必要のある研究を行ったことがある。電カルはまだいいけれど、データの1/3近くが紙カルテであった。
迷いながらやっと辿り着いたカルテ庫は、病院から遠く離れた建物の地下にあった。暗い階段を下り、古びて埃っぽいその部屋に足を踏み入れた瞬間、本気でUターンしそうになった。
閲覧希望のIDリストを恐る恐る提出し、「毎日このリストの上から順番に60冊ずつ出してください」と職員さんにお願いした。
街から遠く離れた灯台守のような彼女たちは、明らかに面倒そうな表情をした。
60冊なんて、ばかなのかな? そんなの1日で終わるわけないじゃん、大きく出て無駄に私たちの仕事増やさないでよね。
澄ました顔の内側に、シニカルな本音がくっきり透けて見えた。

しかし、私がSKY-HIの「愛ブルーム」(どうでもいい情報だがApple Music version)をエンドレスリピートしつつ、何時間も閲覧机に張り付いて鬼のスピードでカルテをチェックし、黙々と1日のノルマをこなしていくのを黙って見ていた彼女らの視線は、3日目から目に見えて優しくなった。ん? という感じで。
途中から、フルマラソンを沿道で応援している地元の人々とマラソン選手のような空気がカルテ庫に漂い始めた。
そして自分的には号泣レベルのタスクを終わらせた5日目の最終日、いつも通りブレずに無表情な職員さん方が、心の中で遠慮がちにスタンディング・オベーションを送ってくれているのをひしひしと感じた。

分厚い手書きのカルテの中には、自分が研修医の頃書いたもの、もう退職された先輩がまだ若いレジデントの時に書かれたものもあった。
先輩この頃からめちゃくちゃ優秀だったんだなと、懐かしさのあまりに声が出る。字の跡を指でなぞってみた。とんでもない達筆だったのだ。全て英語だったけれど。
800人分のカルテには、電カルだろうが手書きのカルテだろうが、主治医の迷いの跡や患者さんの声がそのまま残っていた。
手書きされたS)の項を読むと、「腰が痛いです」「先月入院しました」「娘が出産しました」「先生、この病気は治るんですか?」そんな診察室のやり取りが記録されている。
彼らは確実に家族とともに診察室を訪れ、私の先輩は患者さんの真向かいに座り、手を取って診察をし、彼らの訴えに耳を傾けていた。
私は時間をかけてデジタルとアナログの世界を通り抜け、800人分の「治るんですか」を後ろから追いかけたことになる。

これまで出会った患者さん達の顔が思い浮かぶ。
入院日にヴィトンのスーツケースを二つ転がしひとり颯爽と現れた高齢女性。
万年筆で森茉莉のような洒脱な手紙を書き、私が結婚した年に彼女から届いた小包には、若い新婚夫婦を題材にした小さな絵本が入っていた。
無口で少し強面な初老の男性。
彼は癌に侵されていた。研修医の私がローテートを終え彼の担当医を交代する最後の日、「立派なお医者さんになってください」と一冊の本を差し出した。彼の病気を解説する教科書だった。これは一体どういう意味なんだろうと動揺した。しかし彼の眼差しは真剣だった。奥さんは隣で優しく笑っていた。
彼らは、もういない。

800人分の患者さんの情報は、私がこの手で匿名化した。それらは800行のデータとなった。
彼らの溜息はまとめて一つのファイルに変換され、一人の情報はエクセル1行に収まる。
その工程を挟むと、あんなに饒舌だった彼らは突然口をつぐむ。そして我々は、ひとりの人間がそこにいることを、つい忘れてしまう。


しかし、彼らの手の温かさもエクセル1行の軽やかさも、私は知っている。
たとえ全ての情報をデータ化したとしても、その陰に佇む「ご結婚おめでとうございます」というブルーブラックの滲んだ文字は、決して無味乾燥ではない。
そこには、どこかで困っている患者さんの生きている軌跡が、確かに刻まれている。

今度もし同期に同じ言葉を投げかけられたら、こう切り返したい。

そう、私最近データばっか見てる。でも、そのデータの向こう側には、あなたが毎日診てる患者さんもいるんだよ!」と。

友人を言い負かしたいわけではない。
ただ、一人の医師として、形を変えた貢献に自信をもって踏み出す勇気がほしいだけなのだ。

夜の雑踏でR君の背中を見つけ走り出した、あの瞬間のように。

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転生した女医M、癒し系疫学でほっこり覚醒する

vol.1 Mちゃん、無謀なRCT組むのやめるってよ
vol.2 転生したワイのコホート、脱落率が高すぎる件
vol.3 RWD、下から見るか?横から見るか?(本記事)

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Vol.2 その製造販売後データベース調査、失敗します
Vol.3 なぜあなたの医療データベースは売れないのか - 「食材」を売るな、「料理」を売れ
Vol.4 RWD事業の成否は「1人目」で決まる - 採用すべきは“論文が書けるだけの研究者”ではない理由
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Vol.8 RWD研究の外注で失敗しないために - 外注先を見極めろ
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Vol.10 製薬企業におけるRWD研究のプロセスマネジメントを徹底解説