2026.10.26

【転生した女医M、癒し系疫学でほっこり覚醒する】思い出の国のMちゃん - vol.4

SHARE

人の記憶に頼って情報を集めると、現在の状況や感情によって思い出し方に偏りが生じることがあります。
それが、研究で気をつけたい「想起バイアス」です。

しかし、たとえ記憶が少しずつ形を変えていたとしても、その思い出に救われることもあるのではないでしょうか。

本シリーズvol.4では、Mちゃんが大切な人たちとの記憶をたどりながら、真実を歪める「バイアス」と、人を支える「思い出」の不思議な関係を見つめます。

mMEDICI Library | 熱を、あなたの手のなかに。

「パブリックヘルスの専門知とつながるWEBメディア」


パブリックヘルスの叡智が集まるメディアへようこそ。

スマホひとつで、あらゆる格差を超えて。
研究からキャリアまで、あなたのお悩みに専門家が熱く、やさしく、お応えします。

この記事について

シリーズ紹介

「疫学」と聞くと、多くの人は難しい数式や統計、感染症などを思い浮かべるかもしれません。
しかし、本来の疫学は「人がどう生き、どう健康でいられるのか」を考える学問です。

本連載では、パブリックヘルスの世界へ転生した女医「Mちゃん」が、日々の出来事や人生の小さな気づきを入り口に、疫学というレンズを通して社会や世界を見つめます。

身近なテーマから疫学の考え方に触れる、やさしい疫学エッセイです。

執筆者:Mちゃん

臨床医として日々患者さんと向き合うかたわら、少し前にうっかりパブリックヘルスという異世界に転生してしまったワーママ。mJOHNSNOW1期生。mJの山のようなお宝オンデマンド動画を周回してスキルを習得しながら、疫学を「割り切れない感情をどうにかして割り切りたい時の標準装備」として密かに愛用している。小難しい顔した疫学を、少しだけ身近に感じてもらえたら嬉しい。
カレーはライス派、納豆にはネギ入れるタイプ、ルパン三世なら断然次元が好き。

Recall Bias

「あなたの最も大切な思い出って、なんですか?」

そんなこと誰からも質問されたことはないけれど、あえて今考えてみる。

「最も」ってどうしても絞れないから、せめてベスト5にしていいですか。仮想の質問者に架空のジャブを入れつつ、私は一つの思い出のかたまりにたどり着く。

彼らは、ずいぶん昔、ひとり残らず私のコホートから脱落してしまった。もうみんな、この世の人なのかどうかさえわからない。
それでも私は、何か辛いことがあるたびその思い出に縋り付く。
真実を歪ませているかもしれない記憶のバイアスは考えないようにして。

医学研究において、交絡因子やバイアスは忌むべきものである。
それはそうだ、だって我々が本当に知りたい真実を、彼らは平気で歪めてしまうのだから。交絡因子なら、多変量解析にぶち込んでしまえばまだなんとかなるかもしれない(お叱りを受けそうだが、ここではあえて丸めておく)。

でも、バイアスはどうしようもない。情報収集をクローズした後の統計処理でどうにかすることは、ほぼできない。
歪んだ情報は歪んだまま研究のフィールドに投げ込まれ、歪んだまま漂い、歪んだまま沈む。その結果、真実も歪む。

医学研究には、正確な情報が不可欠である。
しかし情報の種類や取得方法によっては、研究参加者の記憶に頼らざるを得ない場合もあるだろう。例えば、食事量や飲酒量、妊娠中の服薬内容などが挙げられる。

妊娠中の服薬内容と子どもの障害との関連を調べる研究において、障害のない子を持つ母親が質問票に回答するケースを仮に考えてみる。
彼女は毎日の育児で疲れ果てている。ようやくソファに座ったのは今日も夜10時だ。先日小児科で頼まれた質問票を思い出して開いてみた。めんどくさいけど、いつもお世話になってるんだからこのくらい協力しなきゃ。妊娠中のことをなんとなく思い出し、大雑把ではあるがそのタスクを終わらせる。満足感に浸ってお茶を飲んでいる彼女は、妊娠中、風邪を引いた時に何回か服用した薬のことを、綺麗さっぱり忘れている。

一方、障害を持つ子が生まれた母親はどうだろう。
質問票を読んだ瞬間心がざわつき始める。根拠がないのはわかっている。主治医からもそんな説明は一切受けていない。でも、押さえつけていた不安がここでむくりと起き上がる。あの薬が悪かったのかな、あの薬が原因だったとしたら……焦燥感とともに、ペンを走らせる。必死になって時間を辿る。何度も何度も、考える。そうやって完成した質問票が、先の母親のそれとは違っていてもおかしくはない。記憶に、なにかが付着している。

2週間前の食事内容や妊娠中に内服した薬を正しく記載することは、簡単ではない。
人は容易に忘れ、記憶は図らずも改竄される。
現在の状況によって、思い出す内容の色彩や質量が変化することもあるから。忘れ方も思い出し方も人によって異なる。

こうした群間で生じる偏りを、疫学の世界では「想起バイアス」と呼ぶ。もちろんヴィランである。

そもそも「記憶」とは本当に不思議なものだ。全てが曖昧に思える。
脳はよく森に例えられるが、顕微鏡で覗くとその理由はよく分かる。神経細胞を一本の木、木と木をつなぐロープの結び目をシナプスだとすると、脳は網の目のように張り巡らされたロープがつなぐ一つの広大な森林と言える。
私の勝手なイメージ的には、カナダの神々しい針葉樹林。ロープは四方に鈍い光を放つ。結び目を通じて、光は隣の木へとさざなみのように広がってゆく。

そして死ぬまで大切に持っていたい温かい思い出も、体が震えるような辛い思い出も、その本体は、森林の中にある、ロープでつながった木々が構成する一つの区画ということになる。
私は、世の中の人々と同じように、その思ったよりも狭く儚い、ある区画に強く影響を受けながら生きている。

何かの出来事を記憶するとき、人はそれを事実として脳に刻む。
かつて神経科学の世界では、一度固定化された記憶は安定した状態を保つと考えられてきた。過去の一時点ですでに終わったことなのだから。

しかし近年、記憶は時間が経っても変化し得ると言われている。
その仕組みのひとつが「記憶の再固定化」と呼ばれるらしい。

一説によると、長期に保持され固定しているはずの記憶は、想起をきっかけに再び不安定となり、その間にシナプスの結びつきが変化するのだそうだ。その動的変化は必ずしも気づかれない。
しかも、想起する環境によって変化しないときもある。過去の事実はこれ以上動かしようがないのに、記憶が変化する。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。そう言ったのは、誰だったか?

いつもは記憶の底に沈んでいたとしても、ふとした時に思い出は浮かび上がる。もしくはわざわざ浮かび上がらせる。会いたい人々の影を探して森の中の淡い暗闇に目を凝らす。
今辛ければ辛いほど、私の大切な記憶はその輝きを増す。
しかし、目の前に現れたそれが「本当に」その姿だったのか、確かめる術はもうどこにもない。

幼児の頃まで遡りやっと現れる原風景は、そのまま心の最深部の風景である。
長屋周りの植木はいつも光るような新緑で、雑だけど沁み入るような味の料理が食卓に並ぶ。棚にはチキンラーメンのストックがぎっしり詰まっている。
まだ暗いうちから作業服を着て現場に行き、夕方5時には居間のテレビの前に陣取る背中が見える。ネスカフェにクリープを3杯入れたコーヒーは、チープだけど甘い香りがする。大きい兄ちゃんの部屋に貼られた外国人女性のちょっと大人なポスターを、幼い私は直視することができない。
そんな私をじっと見つめる彼らの視線は、泣きたくなるほど温かい。

たとえ、想起すればするほど彼らが真実の姿から遠ざかっていったとしても、それがなんだと言うのだろう。美しいバイアスに、十分救われている。

記憶の木々をつなぐ少し緩んだロープを何度でも結び直しに、今日も私は森へと出かけて行く。

【オンラインスクール mJOHNSNOW入会受付中:7日間無料お試し】

オンラインスクール mJOHNSNOW入会受付中:7日間無料お試し

mJOHNSNOWはスペシャリストが提供する医学研究講座にスマホで、スキマ時間にアクセスできる医学研究オンラインスクールです。

継続率97.0%の高いクオリティで、累計2,023名を超える仲間が入会し、初学者向けの因果推論、疫学、統計学、データ解析、RWDなどをスペシャリストから学んでいます。

講義はすべてオンデマンド化されるので自分のペースで学びを進められ、研究・キャリアの悩みは365日いつでもチャットで相談可能。安心の定額制で、満足いくまで学び放題です。

【参加者の声】
・地方在住で学ぶ場がなく困っていましたが、大学院に行かないと学べないようなことを仕事の合間に学ぶことができ大満足です(40代女性 医師)
・フォローアップが手厚く、オンデマンドで分かるまで学べるのが初学者にとってとても助かっています(30代男性 製薬企業社員)
・低価格なのに見切れないほど多くの講座が受講でき、どれも質が高いです(40代女性 大学研究者)

詳細を見る

転生した女医M、癒し系疫学でほっこり覚醒する

vol.1 Mちゃん、無謀なRCT組むのやめるってよ
vol.2 転生したワイのコホート、脱落率が高すぎる件
vol.3 RWD、下から見るか?横から見るか?
vol.4 思い出の国のMちゃん(本記事)

因果推論シリーズ

  • vol.1:因果推論の出発点 - 因果と関連の違いとは? -

  • vol.2:因果効果の基本を徹底解説 - Individual Causal Effect(個人因果効果)とAverage Causal Effect(平均因果効果)の違いとは? -

  • vol.3:初心者のためのTarget Trial Emulation(TTE)
    - Part 1 ; ETAFOCAフレームワークについて
    - Part 2 ; 三つの時点で考えるバイアスとその対処法
    - Part 3 ; 論文の実例で理解を深めるTTE

  • vol.4:Exchangeability(交換可能性)を徹底解説 - Randomization(ランダム化)が実現する因果推論の必須条件 -

  • vol.5:Standardization(標準化)を徹底解説 - 交絡調整の基本をわかりやすく図解 -

  • vol.6:Inverse Probability Weighting(逆確率重み付け)を徹底解説 - 交絡調整の基本をわかりやすく図解 -

  • vol.7:Consistency(一致性)を徹底解説 - 観測データと反事実アウトカムを一致させよ -

  • vol.8:Positivity(正値性)を徹底解説 - 因果推論の落とし穴を回避せよ -

  • vol.9:Immortal time biasを徹底解説 - 臨床研究に潜む「不死の時間」の罠 -

  • vol.10:効果修飾を徹底解説 - 私たちは「どの集団における」効果を見ているのか? -

  • vol.11:交互作用を徹底解説 - 複数の介入による相乗効果 -

  • vol.12:DAGを徹底解説

    - 基礎編;因果推論の必須ツールで交絡因子を可視化する
    - 応用編;調整してはならない?コライダーと媒介変数の落とし穴

  • vol.13:交絡を徹底解説 - 結果を歪める、因果推論の最重要課題 -

  • vol.14:選択バイアスを徹底解説 - 消えた患者が結果を歪める?- 

  • vol.15:測定バイアスを徹底解説 - ズレたメジャーが、結果を歪める -

  • vol.16:ランダム誤差を徹底解説 - 研究結果は「運」で歪むのか? -

  • vol.17:傾向スコアを徹底解説 - 「治療を受ける確率」で交絡に対処せよ!

  • vol.18:媒介分析を徹底解説 - 治療効果のメカニズムを解き明かせ

  • vol.19:操作変数を徹底解説 - 「病院までの距離」で交絡因子に対処せよ